
渋沢 成一郎(しぶさわ せいいちろう、1838年 ? 1912年)は、江戸時代の幕臣で、明治時代の実業家。渋沢栄一の従兄に当たる。渋沢喜作ともいう。1864年、渋沢栄一と共に一橋家の用人平岡円四郎に認められ、徳川慶喜に仕える。1867年、慶喜が将軍になると奥右筆に任じられた。1868年、戊辰戦争が起こると、成一郎は徹底抗戦を主張し、自分と意思を同じくする幕臣をかき集めて彰義隊を編成し、その首領となる。ところが彰義隊で内部対立が起こり、成一郎は副首領の天野八郎と対立して彰義隊を脱退する。その後は振武隊を編成してなおも徹底抗戦を主張し、新政府軍と各地で戦い、榎本武揚の函館まで転戦した。明治時代では、栄一の仲介により大蔵省に入る。もともと栄一と同じく経済の才能もあった成一郎は、そこから実業者として手腕を発揮し、後に生糸貿易業、廻米問屋などを経営するなど、明治時代の実業家として大きな成功を収めたのである。

小笠原 長行(おがさわら ながみち、1822年6月29日(文政5年5月11日 (旧暦) 5月11日) ? 1891年(明治24年)1月25日)は、江戸時代後期の大名。江戸幕府の老中、外国事務総裁。肥前国唐津藩主、小笠原長昌の長子。号は明山。1823年に父が死去し、唐津藩は松本藩から藩主松平光庸の子(小笠原長国)を養子に迎え、幼少の長行は庶子となる。1862年に幕府奏者番から若年寄、そして間もなく老中となった。63年に生麦事件が起こったとき、事態を早急に終結させるために幕府に無断で賠償金をイギリスに支払った。ただ「無断」とされるが将軍後見職の一橋慶喜の黙認は得ていたといわれている。この事は尊皇攘夷派からの反発を呼び、14代将軍・徳川家茂に弁明しようとしたが、大坂に滞在中に事が露見して老中職を罷免された。
小栗 忠順(おぐり ただまさ、男性、文政10年(1827年) - 慶応4年4月6日 (旧暦) 4月6日(1868年4月28日))は、江戸時代末期の幕臣である。安政5年(1858年)豊後守に任官、のち文久元年(1861年)”上野介”(こうずけのすけ)に昇進。”小栗上野介”とも称される。新潟奉行小栗忠高の子、母はくに子。花さか天使テンテンくんで知られる漫画家、小栗かずまたは子孫に当たる。安政6年(1859年)に目付。万延元年(1860年)34歳にして日米修好通商条約批准のため米艦ポウハタン号で渡米、地球を一周して帰国した。その後勘定奉行、軍艦奉行など多くの奉行を務め、財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。